部分尊敬
年末に本棚を片づけていたら「現代によみがえる歎異抄」「歎異抄を語る上下」「般若心経を語る上下」「道元のことば、正法眼蔵随聞記にきく上下」「旧約聖書を語る上下」が並んだ。いずれもNHKテキスト。主に日曜朝5時からの「こころの時代~宗教・人生」に1年間放送されたもの。むかしから宗教ないし信仰に興味があるほうで
ある。
自家法事は神道だがどちらかといえば仏教に親しみを感じる。お寺を散策するのが好きだから。しかしついに信仰に帰依することはなかった。縁なき衆生である。ちょっと調子がいい?と「朝に祈り夕べに感謝」を忘れる。私の宗教への態度は文学的感心の域を出ない。
録画して観る「こころの時代~宗教・人生」は1時間、長すぎる。オモシロく作っている大河ドラマも45分。20分も我慢するが止めることが普通。世の中には特別の起伏ある体験をし世のため人のために行動し著作や講演(説法)をしているエライ人がいるものだ。感服することしばしばだが「だからそれが自分とどう関係があるの?」である。
なにより自分が感じ考え格闘しなければ、受け売り伝聞知識をいくら増やしたところで意味がない。改革するなら消化不良の理念からまわりでなく身のまわりへの働きかけ行動から。だが信仰古典の含蓄は深い。無人島か刑務所に行くことがあったらじっくり一行一行をかみしめて読ませてもらう。外出不可ネット不可?になったら熟読を考えたい。
それでもたまにスルドイなあという言葉にでくわす。親鸞は「凡愚と卑下しながらじつは謙遜を気取っている自分がいる」と看破(自省)したそうだ。道元は人間として生まれ仏法に出会うことの難しさを「盲亀浮木(もうきふぼく)」というたとえ話にした。意味はネットで検索して下さい。「なぜ私という存在は世界をみわたしても歴史上もただ1人だけなのか」という奇跡を科学は説明できない。
いっときの「あの人は立派な人だ」という全的信頼は途中から「ちょっとちがうんじゃない?」と興ざめに変わる。全体を考えているなんてウソだ。部分尊敬に意識転換することで、すーっと気が楽になる。「たんに自分が目だちたいだけじゃないか」みんな自分が一番かわいい。注目されたい拍手されたい、それが本能。だから他のそう思う気持も同じように尊重しよう、と仏教者に教えられるとなるほどと思う。
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